桐野夏生『アウト』について/メアリー・ゲイツキル

桐野夏生の『アウト』は殺人ミステリーである。たとえ、はじめの数十ページのうちに最初の殺人事件が起こり、犯人がすぐにわかってしまうとしても。その後も次々と事件が起こるが、いずれの場合も犯人は常に明らかである。桐野の描く人物像にミステリアスなところはない。弱い者と強い者、愚か者と賢者の別は明確になされ、この四者の区分それ自体が作者の道徳観の表明に他ならないことを、読者は繰り返し意識させられる。作品からは、桐野がいかに弱さを憎み、いかに情動 ―特にそれが弱さと結びついた場合のもの― を信じず、いかに強さと賢さを好むかが伺える。(たとえその賢さが冷酷さや非情さを伴うものであっても、である。)現代アメリカ文化の主流どころでは「同情」の一語が過剰なまでに讃えられるが、弱者への共感や凡庸なキャラクターへの憐れみといったこの種の「同情」を基準にすれば、『アウト』は作品として落第だ。しかしここに一つの謎(ミステリー)が残る。桐野の登場人物の描き方、特に最も頭の悪い女の描き方は徹底的に無慈悲で、彼女をサディスティックになぶり殺す前場面などは侮蔑に満ちているにも関わらず、物語全体にはなおも、アメリカ文学が理想化するところの「同情」の陳腐さを浮き上がらせるほどに深く強い、悲痛と憐憫と悲しみとが満ちているのである。

物語の主人公は、弁当工場に夜勤で勤めながら不安や失望を抱えて暮らす中年主婦四人。冷え切った夫婦関係を送る雅子、生活費の蓄えをギャンブルで使い果たしてしまうようなロクでもない夫をもった弥生、実の娘の策にはまって幼い孫と寝たきりの姑を一人で抱え込むことになった未亡人のヨシエ、そして、あらゆる物欲に負けて借金地獄に陥る能無しで小太りの邦子―。

ある日弥生は何かの糸がプツンと切れたかのように、愚劣な夫を殺害する。しかし彼女にはもともと事件に一人で始末をつけるほどの知恵も力もなく、パート仲間である沈着冷静な雅子に助けを求める。(作者はここまでのいきさつについて多くを語らない。)雅子は引受けて死体をバラバラにすることを決め、ヨシエの協力を取り付ける。ヨシエは徹底した実利主義者だが、雅子には金を借りている負い目があり、脅迫されるほどのこともなくその要求に従った。自分も雅子に金を無心しようと目論む邦子は、間抜けにも雅子を訪ねて死体の解体現場に自ら飛び入り、図らずも事件に巻き込まれていく。太り気味の邦子は何ひとつまともにこなせない無能な厄介者で、任されたバラバラ死体の処分も中途半端に済ませ、あっけなくそれを発見されてしまう。しかし殺人と死体遺棄の容疑は、歌舞伎町のクラブオーナーであり女衒である佐竹にかけられた。佐竹は洗練され、自らそれを押さえつけているかのような性不能者であり、作者の言葉では「得体の知れない」魅力を持った男だ。物語は佐竹への嫌疑から、興味深い展開をみせはじめる。

桐野の作品のもつ謎の一つは、人物描写の粗さと道徳観の単純さ(強いこと=良いこと、弱いこと=悪いこと、という図式)にあり、それが逆に人物の深層心理や、残酷な現実への狂妄なまでの献身ぶりを鮮やかに浮き上がらせているその効果にある。アメリカ文学であれば、作者は邦子に何らかの意外性を与えたがるものである。たとえば欠点を補うほどの魅力や隠された知性、つまり何かしらの道義心や芯の強さ、あるいは、少なくともごく人並程度の善良さ―、これらのいずれかが、彼女の死に威厳や哀調をもたせるために描かれる。これは、人は複雑なものである、という現代的発想の産物に他ならず、また複雑さは現代人の実際の姿でもある。ほんの二、三の要素で説明のつく人物像などはほとんどあり得ず、少ない特徴で人格の大概が描ききれそうな人物でさえ、その性格はしばしば、語られない正反対の性質と不即不離の関係にあったりする。

しかし「複雑さの描写」はお決まりの型、つまり読者を喜ばせるために作者が義務的に描く一種の定型のファンサービスのようなものにもなり得る。そしてそれ故に、型にもサービスにも無関心な知性ある作家の作品は、慣れない読者を身構えさせる。

なぜ弥生は夫を殺したのか?―共同の貯金を使い果たされて激昂したから。なぜパート仲間たちは死体解剖の協力に同意したのか?―金が必要だったから。単純な動機、むき出しの強さ。しかし、桐野は何気ない描写(ノート)を随所に差しはさむことで、物語の主旋律がもつこの単純さと粗野さに抵抗してみせる。たとえば、最年長のヨシエについて「ヨシエは物事の本質に蓋をして注意深く心の底にしまい込み、いつのまにか勤勉を自分の金科玉条とした。現実を見ないようにすることが、ヨシエの生きて行く術だ」と語り、「型」と自己抑制に異常なまでに重きを置くクラブのオーナー佐竹が、ある客を評するところでは「特徴のない顔をした、どうということのない男である。その辺りを歩いていれば、たちまちほかの勤め人と見分けがつかなくなるだろう。...こんな凡庸な男が安娜に惚れるとは。...身のほど知らずにもほどがある。...すべての賭博にルールがあるように、遊びには約束事が欠かせないのだ。自制を厳しくしている佐竹は、山本のような客を見ると腹が立つ。」と語ることで、二人の間に通底するものの存在を示唆する。

感情よりも自ら決めたルールを重んじる過剰なまでの自縛ぶりは、それ自体がすでに激情の一種であるかのようにも見える。しかし、日常的な感情の働きに左右されないこの極端な価値観こそが、それぞれの失意や金銭本位の判断を越えたところで登場人物たちを引きつけ合う、強力で決定的な磁力になる。「でもね、あたし思ったけどね」、死体を手分けして解体した後にそう切り出したのは、工場でも「師匠」と呼ばれる仕事上手のヨシエだった。「こうしてもらって、変な話、ホトケさんも喜んでるんじゃないかって気がしてきたね。あたし、今までバラバラ殺人とか聞くと、何て残酷なことするんだろうと思ってたけどね。違うよ。うまく解体するってことはホトケさんを丁重に扱うってことなんだよ」。被害者の「オカシラ」の処分について女たちがあれこれ言い合ったり冗談を交わしたりするこの場面で、ヨシエが口にする理屈は完璧な説得力をもつ。刻まれた遺体を「東京都推奨のゴミ袋」にすべて分け入れて、「『燃えるゴミ』としてうまく処分」されるように都内の各所に捨てる準備を進めるうちに、殺人事件は、実際上も意味あいにおいても、彼女たちの日常生活と奇妙に調和しはじめる。

桐野が最も強い共感を寄せるのは、物語の中心人物である雅子である。雅子は他の誰にもまして厳密さ、冷静さ、強さを、感情に勝るべきものとして重視し、自分の決めた「型」の通りに生きることを、家族 ―どの文化においても最優先に重要視される型― を犠牲にしてまで優先させようとする。弥生を助けることに決めたのは金のためではなく、結局は雅子が退屈しており、絶望的なまでの現状不満感に苛まれていたからだった。「オカシラ」の処分場所についてヨシエに尋ねられ「聞かないほうがいい」と誤魔化しはするが、その後、頭部を埋めた場所に再び赴いて行くのも他ならぬこの雅子だ。「下草の間に、わずかに土が出ているところがある。辺りは何も変わりはなかった。が、今が頂点の夏の山は勢いがよく、十日ほど前よりさらに、全体が生きているかのごとく命の匂いに満ちていた。今頃健司の首は腐ってどろどろに溶け、土の中の虫たちのいい餌食となっていることだろう。その想像は無惨だが、ほんの少し愉快だった。山の命に首をくれてやったのだから。」

およそ人間味のないこの感情吐露こそが、登場人物全員がそれぞれに(感傷的でだらしがなく、この点で落伍者とみなされるべき邦子を除いて)、どこかで抱きたいと切望しているある種の慈悲心 ―ちっぽけな欠陥人間だった健司に対するのではなく、すべての命に対する慈愛― が、作品中に得体の知れない形で立ち現れた瞬間だった。私たちをつき動かす大きな力への意思は、雅子と佐竹の最後のシーンで最もドラマティックな形で描きだされる。それは暴力的であり、ほかならぬその卑劣さゆえに官能的でロマンティックなシーンだ。残忍なまでに真実味を追求し、心理学的にたしかな構成をもつ物語にしては、殺人の官能性を空想的にややふくらませ過ぎている印象も無くはないが。

しかし私たちは、それがロマンティックすぎるかどうか、心理学的に真実味があるか否かなどを気にせずに物語を読む。心理学の理論を越えて、また桐野とその登場人物たちが謙虚に、あるいは誇らしげに従ってきた「型」やルールという制限を越えて、ただそれがリアルに感じられるからである。健司の頭部を食べる生き物は、私たちが誰であろうと何を考えていようとそこに在り、私たちとともに生きている。そのことと同じくらいに、物語はリアルなのである。

ラストシーンに辿りつくまでの間、私たちたちは感情に飢え、自己抑制の重圧が解かれることを願い続けた。そしてようやく、悲痛と憐憫と哀しみという情念の海に溺れそうになりながら、最後にそれを手に入れた。雅子はずっと自由を求め続けてきたが、一切合財を犠牲にすることで、これからそれを手にすることになるだろう。女たちには犠牲を払う覚悟がある。そのことを読者に信じさせるのは、桐野の素晴らしい才能である。私たち読者は、彼女たちはミステリアスに勝ち誇りながら「無/nothingness」に向かって歩を進めているのだと、心のどこかで信じている。