『新しい住みか』より三篇

大崎清夏

アブー

ついに
あなたは
外へ出た

静かな 静かな 朝だった
あなたの 背中の 北半球に
ときおり 虻が 不時着した
不満げな太陽に 胸を はって
堂々と 外へ
あなたは 出た

むし暑い 無風の 朝だった
くろあげはが二羽 もつれて 飛んだ
あなたはいつもの 速度で 歩いた
誰も 誰も 気づかなかった
脱走するときは誰でも走る と
みんな みんな 思ってた

散歩に出たことは 前にも あった
夢で出会った 賢者の 甲羅に

ツイテオイデの 文字を読み
迂回していく道を 選んで
出ていくなんて 思わずに

だけど 顎では知っていた
境界線が あるということ
動物園の 内と 外
飼育員さんたちが いつも
外から来て 外へ帰ること
お客さんたちだって いつも
外から来て 外へ帰ること

続いてゆく地面を すなおに信じ
あなたの額に 執着は ない
あなたの太い 足は 桜の 
梢の影を 通りすぎる
喉をくすぐる草を 食べては
自分を待っているのは どっちか
首をもたげて あなたは 見た

二週間が過ぎ
そう遠くない林のなかで
人間の親子に見つかるまで——

堂々と あなたは あなたの王
一歩の遅さに落ちこむことはあるが
一歩の正当性を疑ったことはない





謝肉祭

薄暗い玄関で、とかげは
はきふるしのスニーカーや
さびたかさたてに守られていた
しっぽまでなめらかに続く身体のままで
また一日、生き延びられますように
(ひがしのうちは こーわいぞ。)

 西の果ての森で、にほんおおかみは
捨てられた犬に身をやつして
その指で移動してきた長い距離と
最後に見た人間の記憶を洞に埋めた
それは小さく縮んだ蜜柑畑のお婆さん 
(にしのたはたは あぶないぞ。)

ふたつの島のあいだで、さざえは
静かな呼吸を続けていた
個体差と種の分岐をいつも
間違えてしまう人たちから
そっと優しく目をそらして
(きたのあさせは みおかがみ。) 

いつもの椰子の木と
いつもの観光客の間で、いぐあなは
公園の脇を走る車の爆音クラクションに
うんうんうんうんとうなずいていた
いつもの鳩を背中に乗せて
(みなみのへいち めざしなさい。)

プラスチックをいっぱいおなかに詰めて、くじらは
コントラバスのソナタを口ずさんでいた
しょっぱい水を吹きあげる力と
移動する力くらいは残っているし
あっちで光る潮に乗ろうか
(ざらららららん ざららららん。)

それではみなさん
肉に別れを告げまして





次の星

地球がもうこんなに貧しくなって
画面に映るのは青ざめた道ばかりで
街角にも火花すら散らないというので
みな、次の星へ行くと言っています
なつかしい埃や煙や泥の匂い
幸運に恵まれれば樹液の匂いも
嗅ぐことができるかもしれないと

そんなふうに荷物をまとめる気持ちを
昔の人は希望と呼んだそうです
いのちがけの希望ばかりが増えて
希望がインフレを起こしてからは
私たちはもうあまりその言葉を使いません
みな、次の星の話をしています

みな、次の星の話をしてはいますが
それが同じひとつの星の話なのか
離ればなれの別の星の話なのか
私たちの誰も確信が持てずにいます
正直その話は誰の口から聞いても
希望ということばと同じ程度に
ふわっと噓の匂いがします

昔はここも大都市だったのかもしれません
瓦礫は風でぜんぶ崩れて砂塵になりました
いまは薄明るい野原です
他愛のない草が生えて
この場所はこんなに心配いらないのに
まだ誰の目にも見えていないみたいです
私はここに家を建てるつもりです

きっとすぐ彼らにも見えるようになるでしょう
そうしたらみな、次の星の話なんてやめるでしょう
そしてみな、ここに家を建てようとするでしょう
土地がだんだん混雑してくるでしょう
信号機と街灯がたくさん立って
交差点の名前が地図に刻まれ
法律が採択されるでしょう

それでも悪いことばかりではないと思います
何人かは友達ができるだろうし
面倒くさくて楽しいことも起こるでしょう
私かあなた、いつかはどちらか先に死んでしまうでしょう
どちらか残って悲しみを抱える仕事を引き受けて
人間はいつか誰でも死にますと昔あなたは言ってくれました
なんだか私は元気が出たのです

いまは地面は冷たくて
何の匂いもしないけれど
私は安心して今夜も眠ろうと思います
次の星ではなくて
この星で







台所まで潮の満ちてきた夜明けに
あなたは画面の前に座って
画面のなかにも潮が満ちていたから
あなたはそれを見てコップの水を飲んで
重い頭を何度かぐらぐら回して
回転の問題を解こうとした

いま飲んだ水が喉もとでしばらく回って
あなたはもうちょっとで溺れるところだった
水泳選手がプールからあがり
表彰台へ向かうのを眺めながら

(どうやったら景色は変わるんだろうな)
難しく考えるのが昔からあなたのわるい癖
直線上を進むものは何もないと知っているのに
回転していたことはいつも 後からわかる

地球の裏側へ向かう船が
画面の奥をゆっくり横切ってゆく
ホシゴイやどくへびや猫や火蟻を乗せて
また別の夢に登場するための航路に乗って

裸足のふちまで潮の満ちてきた夜明けに
あなたはあなたが画面の前から立ち去るのを
すこし 待つだけ

ひどく疲れる作業の予感が
あなたをまだ波打ち際に留めている
どこかの港で船を下りた猫が
あなたの様子を見に来ている