飛魂

多和田葉子

Artwork by Miko Yu

ある日、目を覚ますと、君の枕元には虎が一頭、立っているだろう。天の色は瑠璃、地の色は琥珀、この両者が争えば、言葉は気流に呑まれて百滑千擦し、獣も鳥も人も、寒暑喜憂の区別をつけることができなくなる。虎は君に向かって話しかけるだろう。虎の言葉は学習することができないが、その日、君は虎の言うことに耳を澄まし、理解するだろう。もしも煙をたいて虎を消そうとするならば、虎は消え、身体中の皮膚から冷ややかなサヤマチ草の芽が無数に伸びて出て、この世の中からは音がなくなるだろう。煙をたかなければ、虎は毎日来るようになる。

   または、虎は君のところへは一生来ないかもしれない。君は毎朝目覚める度にまわりを見まわすが、ハヤカ虫の羽音ひとつ聞こえない。来なければ、一生待っても一度も来ない。虎を密かに待つ人間たちは、都市にも農村にも多い。虎が来るようにと願って、枕をヤラ山脈の方向に向けて寝たり、寝ることをやめて夜通し茶を点て、意識を立て続ける人間もいる。

   虎を求める心は、遠い昔からあったようだ。数百年前には、森林の奥深く住むと言われる亀鏡という名の虎使いの女を訪ねて、家を捨て、森林に入っていく若い女たちの数多くいたことが、寺院の記録などに記されている。虎使いの家のあったと言われる場所に今は寄宿学校ができている。やはり亀鏡という名前の女性が書の師として名を響かせている。そして数百年前と同じように、家を捨てて、その寄宿学校に向かう若い女たちがいる。梨水もある日、荷物をまとめて家を出た。梨水とはわたしの名前である。

   わたしが家を出た当時の、女の服装と言えば、盾巻き襟は紫紺、胸は鎧を思わせる内光りの前合わせで隠し、腰上がりの帯をしめて、襞の特に多い巻き物の膝帽子、靴は弓頭でかかとの低いものが流行っていた。八月の暑さがウシカ虫の大群といっしょになって渦を巻く中に顔を突っ込むようにして前へ進むのは気持ちが悪いので、腰をかがめて息をなるべく吸わないようにして歩いた。鳴神が毎晩夕立ちを引き寄せるような夏には、昼間から「枝叫び」という現象が起こる、とよく話には聞いていたが、実際、松や杉の何の変哲もない樹木が、頭上で突然、ぎゃっと叫ぶことがあった。わたしはその声に首筋を噛まれたように縮み上がって、こんなことを怖がっているのでは、亀鏡の学舎には辿りつけないのではないかと不安になった。辿りつけないかもしれないことも不安なら、辿りついてしまうことも不安だった。この師匠を庶民の口は「女虎使い」と呼んでいたが、このあだ名には軽蔑の色合いは全くない。女虎使いの評判はわたしも学童の頃から耳にし、「亀鏡」という名前を聞くと、空に突然浮かび上がる六角形の雲を見るほどの畏敬を感じた。それだけに、まさか自分がいつかその亀鏡のところに弟子入りすることになるとは思わず、虎など自分のような者の一生とは縁のないものと諦めていた。わたしは、幼児館でも若年学校でも、書の運びも朗読の声響も鈍く、教師に褒められたことは一度もなく、特に弁論が苦手で、敵を舌で打ちのめすことなど思いもよらなかった。だから、虎の道を究めたいなどとは考えてみたこともなかった。普通ならば、卒業後は大人たちが声を抑えて「幽密」と呼ぶ生殖器的出会いを重ねて身ごもり、親戚一同から緑赤金の縁飾りの付いた祝儀通知を受取り、裸子に乳房を含ませながら甘い朝粥をすすって暮らすことになっていただろう。ところが三度の幽密で情の芯まで発酵させあった男が、偶然にも亀占師で、わたしの内股に現われたホクロの並び方を、「六千人にひとりの虎模様」と読んだ。虎模様を持つ女は、子供を作れば三つ子が生まれてすぐに病死するが、夫を捨てて修行林に入れば道が徘徊天まで開けるのだ、と男は断言した。当時はわたしも知らなかったことだが、天にもいろいろあって、虎模様の人間が行き着く「徘徊天」という天は、高さは低いが一番遠くまで伸び広がっているため、思考する言葉の力が沸騰点に達しやすいのだと言う。でも、もしも新しい道を選んでも目的地に到着できないとしたら、と心配の幅は大きい。歩いても森林の枝がわたしの足を捕え、求めて学んでもわたしの目に映る書物の文字が暗く翳っていく一方だったらどうするのか、わたしは内心ひどく不安だった。男はわたしの額に鰐の油で作った香料を一滴垂らして、幸運を祈って拝んだ。その日から、わたしは出発の日を目指して、膨大な書物を所有していることで有名な人の家に使用女として潜り込み、独学し、二年後に亀鏡に手紙を書いた。亀鏡のところに弟子入りする場合は、貨幣省や兵器省の学校への入学を希望する人たちの受けるような難しい試験はない代わり、入門の意思を伝える手紙を亀鏡に直接書き送り、承諾の手紙を待たなければならない。承諾の返事をもらうのは大変なことだ、と聞いた。もう二十三年も待つのに返事の来ないと言う人もいれば、すぐ断わりの手紙をもらった人もいる。亀鏡から承諾の手紙をもらったという話はまだ誰からも聞いたことがなかった。わたしは、亀鏡からの返事を受け取った日のことをこれまで何百回も思い出した。

   あの日のことを思い出すと、森林を歩いて行かなければならない恐ろしさも、消えていった。小川の水の表面に「水鬼」ができて、こちらを睨みすえるのを見ても、家へ引き返したいとは思わなかった。あの日のことを思い出すと、微熱が剃刀になって額を横切る。それは春の日差しが庭に置かれた古い鯉灯に反射して、まるで石の中から金色の鱗が生えてくるように見える朝だった。わたしはその頃は一日部屋に閉じこもって読書するのが習慣になっていたので、庭にぼんやり立っていることなどないのに、この日は朝の混穀粥を食べてから滑るように庭に出て、塔の見える遠方をじっと見張るようにして立っていた。どうした、と母に聞かれても、どうも気分が酸いので深呼吸しているのだ、と答え、今夜は簡易会館で影芝居があるそうだ、と父に言われても人形のことを考える気にはなれなかった。やがて塔の方向から、真紅の尻かけ帯を風になびかせて通運支局の局員見習いが走って来た。その手に大きな茶色い封筒が大蛾の羽のようにはためいているのが、遠くはなれたところからでも、はっきり見えた。通運支局の見習いの男の身体の輪郭は、近づけば近づくほどぼんやりとして、わたしの目の前まで来たらその時には乳色の光の中に消えてしまうのではないかとさえ思われた。やっと男が目の前まで来て、封筒を手渡してくれたが、その手紙は開いても読むことができず、わたしは、呼吸が興奮に締めつけられているので、アハアアハアと喉ばかり鳴らしていた。不思議なことに、読まなくてもそれが承諾の手紙であることは分かった。まだ会ったことのない人物に選択されて、その時、全身の肌がすっぽり蒸したての糖饅頭の皮に包まれていくような気持ちを初めて味わった。選ばれたというのはどういうことなのか、ずっと後になってもわたしは亀鏡に尋ねることができなかった。今から思えば、知識を蓄積することができず、思考がいつも十転して、行き着く先はいつも矛盾であるわたしのような者がそれでも採用されたのは、古代の人々が「飛魂」と呼んでいた心の働きが偶然わたしの中で強かったせいだろう。飛魂という現象のあることは書物で読んで知っていたが、その言葉の具体的に意味することが分かったのは、ずっと後になってからのことだった。心細さに臓物を締め付けられ、樹木の影に凍えるように歩いていく時にも、亀鏡からの手紙を受け取ったその時に、わたしのまわりを包んでいた光の感触を思い出しただけで、おののきの呪縛が解けていく、そういう作用も「飛魂」と関係があるのかもしれない。記憶の中のひとつの状況に魂を飛ばして、今そこに居るのも同然になるのだから。

   午前の光に包まれて、手渡された封筒を開き、文面を黙読するという静寂の数分が、まるで光の破片のひとつひとつが声になったかのように賑やかだったのを今でも覚えている。手紙の内容は全く理解できなかったが、それをかえってありがたがるように繰り返し読んだ。と言うよりも、文字の上を何度も視線が往復した。心臓の鼓動が早まり、体液の流れが激しくなっていった。その時のわたしは愛欲しているように見えたかもしれない。それは、どのような文面だったのか。わたしにも理解できる言葉で書いてあったのかどうかさえ、思い出せない。わたしは手紙を本当に読んだのだろうか。脇に立つ局員見習いの若者は、事情は知らなかったようだが、わたしと息を合わせて興奮し、わたしが恥を忘れて続けざまに思いきった溜め息をつくと、若者は手足を落ちつきなく動かしながら、目でわたしのくちびるに吸いついてきた。わたしは手紙をたたんで、よかったよかったと初めて見る若者と抱きあって喜びあった。亀鏡の手紙を運んできてくれたというだけで、わたしはこの若者に蜜を送った。今でも、あの若者の顔を思い出すと、手紙の重さが手のひらに蘇ってくるような気持ちになる。

   森林が暴力の土地になりうるのは、獣たちのせいではない、目には見えないものがわたしたち自身の妄想に身を借りて姿を現わすせいである、と新古代の書物には書いてある。「断頭風」も、頭を奪われることを何よりも恐れている人間という生き物がそこを通過しなければ、ただの小さな突風に過ぎないのだろう。樹木には頭がないから断頭の心配もない。わたしは腰をかがめて歩き続けたので腰が痛みだし、真直ぐに立つ勇気もないので、その場にしゃがんだ。しゃがむと膝が痛むので、今度は湿った地面にべったりと尻をつけて坐った。すると、藪を通して向こう側に、藍媚茶の肩隠しが見えた。どうやら女性がひとり、わたしと同じように地面にお尻をつけて休んでいるらしい。ちらっと見えた横顔は花嫁人形のようで、好感は持てなかったが、このような森林の奥まったところで出会ったのだから、声をかけずに通り過ぎることはできなかった。もしもし、あなたはどちらまで、と藪を通して尋ねると、その人は壺が割れたように驚いて、あたりをきょろきょろと見回した。こちらから向こうが見えても、向こうからはこちらが見えないらしい。そういうことが頻繁にあるということを当時のわたしはまだ知らなかった。ここですよ、あなたの首筋の斜め右後ろの藪の向こう側の、と説明すると、その人は、ますます混乱し、平静を失って、霧か雲かとうろたえて四方を見回すばかりだったので、わたしは腰を上げて、藪を回って向こう側へ出た。わたしを見ると、相手はやっと心を平らにして、あなたも亀鏡様の学舎へ行くのですか、と礼儀で角を仕切って尋ねた。わたしはうなずきながら内心がっかりした。このように声のうわずった、髪を傲慢に結い上げた、経験の薄そうな、年齢の足りない女でさえ採用されるのだとしたら、亀鏡の人を見る目は大したことないということになる。わたしはそこに坐って腰の痛みを少しほぐしてから出発するから先に行ってほしい、と頼んだ。女はその名前を粧娘と言って、腰の痛みと聞くと、悪い病の伝染するのを恐れるかのように、急いでわたしの傍を離れた。粧娘が去ってしまうと、わたしはほっとした。皮膚感覚のなじまない人と並んで厳しい道を歩いていくのはつらい。ひとりで歩く時は、少し気分が沈んでいてもどうということはない。ひとりなら、栗のいがを針鼠に見立てて笑い、キツツキが樹皮をつつく音を舌先で真似て楽しむこともできる。そうするうちに気分も軽明になってくる。話の通じない人間とおしゃべりしながら行くのでは、日没も肩に重く、暮れれば闇は実際以上に深く感じられるだろう。

   ひとりになると、風の音が強くなった。今思えば、あの時、上空下空を吹きまくり、何重もの音層を醸し出していた風の音は、亀鏡の声と似ていないこともない。彼女の声は、ひとつの流れを追っていこうとすると、方向を失う。澄んだ流れを捕まえようとすると、淀んだものが溢れ出す。それは亀鏡の抑制された愛欲が声に漏れているのだと勘違いして、彼女の声を聞きながら、茎を固くする男たちもいた。これはずっと後になってからのことだが、学舎の屋根の一部が壊れて工人たちが作業していた時期、彼らは亀鏡の声を盗み聞きして、そんなことをささやき合っていたのだ。実際には彼女の声は声の内部で摩擦を起こし自己増幅して、音響の空間を絶え間なく膨張させていくだけで、抑制とは関係がない。少なくとも、わたしは初めのうちはそう思っていた。そんな亀鏡の声と、この日、闇の迫る時間に聞いた風の音とは酷似していた。

   風ではない別の音がふいに聴界を横切ったのは、それからしばらくしてからのことだった。もうすでに、草の鋭角も影絵になった時刻のことで、目を凝らすと杉の格子を何十も透かしてやっと見えるところに、海亀ほどの大きさの岩が横たわっていて、その石にまたがっている女がたてる激しい呼吸の音が、植物界の雑音と混ざって聞こえてきた。わたしは道をはずれて杉の中へ踏み込み、尻から腿にかけてむき出しの肉の芳情を見た。女が肉を擦りつけている石の隣には、脱ぎ捨てられた絹の胴落としが小動物のようにうずくまり、その上をサラサラとナガメ虫が横切っていくところだった。女が身体を前後に動かすと、額の結び物の絹が、ふわふわと舞った。断髪に柑橘の口、目は閉じていた。女は動きを止めると、ミミズクの目をかっと見開き、わたしを見ても驚く様子もなく、裸の下半身を隠そうともせず、幼女の微笑を浮かべていた。この人となら、道中の不安を分かち合ってもいい。快鬼と戯れているところを邪魔されても、それで友達ができるならいい、と女は言った。快鬼などという言葉を平気で会話に混ぜるのは、どういう土地の出身者なのだろうと興味をひかれて尋ねてみると、女の名前は煙花と言って、出身は大山脈の向こうの牧畜のさかんな土地であるという。あんたも亀鏡のところへ行くのならば急ごう、日が暮れてくるから、と言う。絹の胴落としを素早く腰に巻き付けると、煙花は先に立って歩き始めた。土がこびりつき湿った煙花の腿を思うと、わたしは自分の内股に隠された虎模様のことを思い出した。運勢を占ってもらったら、亀鏡の元でしか天が開けないと言われて入門を決心したわたしであったけれども、皮膚の表面から読み取られた運勢など本当に正しいものなのかどうか、わたしは自分の迷いを思いきって煙花に尋ねてみた。あたしは占いを信じる、理由がなければ印が現われるはずはないから、と煙花は答えた。

   この時はまだ、煙花にとっては、虎模様も虎の道も、混沌とした獣のイメージの中で朦朧と輝く一塊の希望の別名に過ぎなかったのだろう。学問は頼りにならない、占いとまじないだけが救いになる、という論旨が出てきたのは、煙花の中に隠されていた病が出口を塞いでも塞いでも、次々と新しい出口を探してにじみ出るようになってからのことだった。初めて出会った時には煙花が病気だとは思いもよらなかった。病気という概念は実はその頃はわたしの頭の中にははっきりとした場所を占めておらず、それは休養の間接的な呼び方だろうくらいに思っていた。わたしの母も父も本当の病気をしたことがなかった。今日は病気だから、と言うと、それは、仕事をしないで、日陰で身体を休めることを意味した。そのせいか、わたしもまた病気というものにかかったことがなかった。煙花の場合は、増殖し過ぎた精の力に身体を侵食されていったのかもしれない。肌から羨ましいほどの熱気を発散させながら、その割に歩調が遅かった。まるで、精力が脚を発熱させ、逆に重荷にしてしまっているようだった。熱のある物は冷たい物に比べると同じ大きさでも重量があるので、運ぶのが大変になる。

   この時、鳴神の悪戯がなかったら、わたしと煙花の心はこれほど近づくこともなかったかもしれない。闇に沈み始めた空に光柱が一本立ち、続けて雷塊が轟音を地に落とした。頭髪が痙攣し、手足の力が抜けて、煙花とわたしは申し合わせたように胸を合わせて、その場に倒れた。地に身体を伏せ、自分は泥土の一部だと言うように強く肌をなすり付ければ、鳴神の気紛れな暴力の犠牲になることはない。鳴神は、生き物が胸を張って傲慢な歩き方をするのが嫌いなのだ。二度目の雷は、表現が後退したようで、その代わり、大粒の雨粒が森林を叩き始めた。一斉に鞭打たれる樹葉のたてる騒音はすさまじく、わたしたちは、耳を塞ぎ、目を塞ぎ、土に同化することだけを考えて、じっとしていた。闇は降りるところまで降りてしまったから、このまま待つしかない。隣に伏せて何か叫んでいる煙花の言葉さえ聞き取れないほどの激しい夕立ちの中で、寒さを感じる前に濡れた衣服に誘われて身体がぶるぶる震え始めた。いつの間にか雷声は止んでいて、それから雨が小降りになるまで何呼吸もなかった。雨が霧に変わると、膨々忘々と夜鳴く鳥の声が聞こえた。夜の樹木の漆黒の格子を通して、灯りが見えた。煙花とわたしは濡れた衣服に縛られながら、ゆっくりと灯りの見える方向へ歩いていった。木こりの休息にでも使われていたのだろうか、壁の崩れかけ、屋根の古い小屋が建っていた。その小屋を照らし出す光は焚き火から出たもので、ひとりの女が几帳面な四角にその火を管理していた。その女がわたしたち濡れ雌鹿に向けた軽蔑の目は、火をおこすことも知らないくせに天候のことも時刻のことも考えずに出発したわたしたちの無知無分別さに向けられたものだった。あなたたちも亀鏡の学舎へ行くのでしょう、と言う女の声には競争心の刺が含まれていた。自分自身をも引き裂いてしまいたそうな厳しい目をしたこの紅石という女が亀鏡に対して子猫のようでもありえるということ、不安の発作に襲われた煙花の心情を誰よりもよく理解できるのはこの紅石であること、などはずっと後になって分かったことだった。この時の紅石は、ためらわず火に近づいていった煙花に牙を剝くような顔を見せた。衣の水滴が火の中に飛ばないように、と厳しく注意したのも、実は、火の暖かさを当然のように享受しようとした煙花への戒めだったのかもしれない。他人の暖火を分けてもらうわたしたちは、濡れた自分の愚かさをまず反省して、それから感謝の念を示すべきだと、紅石は思ったのだろう。そこには濡れた同性の身体への嫌悪感のようなものもあったかもしれない。衣服も頭髪も、皮のように肌にはりついて、煙花は有り余る肉房を、わたしは貧弱で中性的な身体をさらけ出していた。病の進行が激しくなり煙花が痩せ衰えた頃には、わたしは煙花以上に脂肪が付いていたが、当時はそんなことは予想もできなかった。人の身体などというものはうつろいやすいもので、昔の話をする時には、その当時の自分や他人が、別の肉体を生きていたことを念頭に置かなければいけない。わたしは初めは火に接近するのを遠慮していたおかげで、紅石の反感をやわらげることができた。もっと近くへ、と紅石はわたしを誘いさえした。わたしたちは以前出会ったことがあるのではないか、とも言い出した。わたしを味方につけることで、三人の中で二対一の構図を作ろうとしたのかもしれない。この時の紅石は、髪の急流カットから、靴紐の蛇尾模様に至るまで服装には隙がなかったが、人間との付き合いという点では不安が多いようだった。不安を敵意の外套で隠し、知識の蓄積を編み上げ靴にして履いて、紅石は出発した。わたしたちはその夜三人で小屋の中に眠ることになった。

   翌日目が覚めると、紅石はもういなかった。先に出発する、という文章が、食台の上に塩を撒いて書いてある。塩文字は幸運を招くと言うから、と言って、わたしは煙花の額にかかった陰を吹き払おうとしたが、煙花は、そんな迷信は聞いたことがないと沈んだ声で答えた。紅石は、何時頃出発したのだろう。夜明けとともに出発したのだろうか。三人で歩く煩わしさを逃れて出発したのか、わたしたちよりも早く到着したいから出発したのか。しばらくしてから、わたしたちも出発した。修行林に東の入り口から入れば、学舎には一日歩けば到着すると言われていたのに、鳴神のせいで、昨日は着くことができなかった。今日は必ず到着するはずだ、と思うと歩調が速まった。煙花は歩いていくうちに機嫌がよくなり、身体もいくらか軽くなったようで、樹木の皮を手のひらで打って伴奏の代わりにしながら、足は旋律を歩調にして歩いていった。わたしは、煙花に昨日の粧娘との出会いのことを話してみた。彼女は昨日どこで宿泊したのだろう、昨日のうちに学舎に着いたのだろか、とわたしが尋ねると、その粧娘という女は親戚から噂に聞いたことのあるあの女に違いない、と煙花は愉快そうに言った。それはある商人のひとり娘で、美しさ以外にはこれと言った取り柄もないが、その美しさを資本に、幼少の頃には予想していなかった世界に入り込むことになった。と言うのは、両親が洪水に流されて早死にし、親戚もなく路頭に迷うことになった粧娘の顔に現われた喪の色に心を奪われた学者がこの娘を拾った。娘よりずっと年を食っていた学者は最近増えつつあるという無肉茎の類に属し、娘の口を嘗め、耳を噛み、果物を分け合って食べるだけで満足していた。粧娘はそれに耐えることが自分の仕事であり義務であると信じ、健康な忍耐力でそれに耐えた。やがて粧娘は、書斎を好むようになった。書物の世界に、筆の誘惑に、ますます心を奪われていくこの娘を、学者は初めは春を迎える心で、やがては悲しい思いで見守っていた。ついに森林への出発が決定した時には、学者は袖を濡らして獣の声で泣いた。煙花が語った粧娘の前歴というのは、そのようなものだった。

   森林を抜けて走る道は一本で、枝分かれしていなかったから、先に出発した紅石は途中で会わない限り、先に到着するはずだった。それよりも前に出会った粧娘はそのまた前に到着するはずだった。昼過ぎ、炎天が頭髪を焼き始めた時間、ひとりの女がわたしたちを追い抜いていった。それは身の軽い伝言少年のような女で、服装も爽快だったが、目は泣きはらしていた。顎で軽く会釈するだけで、逃げるように脇を通り抜けていった。あんたも亀鏡という価値観にだまされて学舎へ行くんでしょう、と煙花が戯言を言うと、その女は目の両脇に猫の髭のような皺を寄せて笑い、その通り、詐欺に会うものは真実をも掴む、とわたしの聞いたこともないような諺を引き合いに出して笑った。それから、突然わたしたちと歩調を合わせて歩き始めた。一見全く共通点のない指姫という名前のこの女の心にするりと入り込む言葉を、煙花が出会いと同時に言い当てたのは今でも不思議だ。その後、ふたりの親交は特に深くも浅くもならなかったように思う。ふたりの間には対立する要素も共通する流れもなく、ただ時にぴったりと言動が一致して、快感が胸に下るということがあるようだった。ふたりの人間の性が合うか合わないかは、事前に言い当てることができない。一致点と不一致点が夜空の星のように多数散らばっていれば、星と星を繋ぐ線が引かれ、星座が生まれ、友情は深まり長続きすると言われる。星の数は数えられるものだろか。ひとりの人間に深い関心を持てば、自分と一致するところも一致しないところも星の数ほど見つかるのではないか。だからと言って、性が合うとは限らない。これは後で分かったことだが、指姫は歩くのが好きで、道という道はいつも忠実な犬のように指姫の後ろについて歩いた。この日も、指姫は歩くことそのものが嬉しくて仕方ないというように歩いた。それにつられるように、煙花の足取りも踊るように変化してきた。いよいよ学舎が近づいて来たなと感じたのは、昆虫の歌声がはっきりと聞き分けられた時だった。「女たちが遊んでいる。道に捨てられた文字を拾う女、蜘蛛が怖いから密封テントの中で寝る女、いつも煙草の三分の一を吸っては火を消してしまう女、郵便配達の手伝いをしている女、何をしても指が痛い女、詩を書く時にいつも梨を齧っている女」この歌を聞いて、わたしたち三人は深刻に黙り込んでしまった。

   学舎の前には、様々な色の絹衣が群をなし、女たちの話声が滝壺の泡騒ぎのように聞こえた。黙っているとその音に押しつぶされてしまいそうだったので、わたしたち三人も負けずに声を張り上げて、入門者の数の多いことを呪ったり、足の痛みを訴えたりした。後ろの方に立つわたしたちには、前の列で何が起こっているのか、果たして亀鏡自身はすでに姿を現わしたのか、何も見えないので、空想に判断を任せるしかなかった。その時、昆虫的騒音がまっぷたつに割れて、中心に姿を現わした一筋の道を通って亀鏡が向こうから歩いてきた。集まって来た女たちの全体を貫いて、彼女の身体は犀のように進んだ。犀ほど女性的美しさに恵まれた生き物はない、と熱帯湿地国の詩人たちも書いている。犀の左右にぶらさがった鎧の一枚一枚が革装丁の高価な書物の表紙を思わせ、犀の角は敵のいない前方に向かって優雅に挑戦する。亀鏡の顔にはいつも犀があるわけではなかった。犀は現われては消えた。犀が消えるとそこには別の美しさが現われた。気流の動きへの信頼と遊びの快楽を失わない童顔に、婦人によくあるすねたような恨みつらみが付け睫されて、妖艶なくちびるは両端に刻まれた決意の厳しさのおかげで溶解することがない。瞳の中には思考がいくつもの小さな炎になって見えた。亀鏡は最後の最後に到着した女たちの列までまばたきせずに歩いて行き、その間ずっと人の群れを麦の穂のように見つめていた。見ていながら見ていないかのようだった。見ることを拒否する潤んだ視線が女たちの額より少し上の頭髪のあたりを微風のように通過していった。その微風がわたしのところに来てふいに下降し、ほんの一瞬のことだが、わたしの視界にはまった。亀鏡が正面からわたしを見た。これは気のせいだったのだろうと、この時は思った。何百人という女たちが集まって来ているのに、なぜ亀鏡がわたしだけに目を向けるはずがあるだろう。しかもその瞳には、媚びるような湿った温かさと挑戦者の刺すような冷気が混溺していた。