どぶさらえ

町田康

Illustration by Shuxian Lee

先ほどから、「ビバ! カッパ!」という文言が気に入って、家の中をぐるぐる歩きまわりながら「ビバ! カッパ!」「ビバ! カッパ」と叫んでいる。

なぜ気に入ったかというと、単純に、「ビバ! カッパ!」という音の響きが連なりが気に入ったからだけれども、ただそれだけならこんなに何度も言わない、せいぜい水道水をカップに入れ、ぐいと飲み干したる後、「ビバ! カッパ!」と一声叫んでそれで終わりだろう、それをばこうして何度も何度も言うというのは、そのビバ、カッパ。という文章に明確なビジョンが伴っているからである。

どんなビジョンかというと、それは白昼である田舎道である。奥に里山があって両側は畑もしくは田圃、その中央に山裾から続く一本道がある。山裾にへばりつくように軒の深い藁葺き茅葺き屋根の家が立っていて、しかし人影はさらにない。昔の日本の田舎のようなところとおもえばまず間違いはない。或いは山陰地方とかに行けばいまでもそんなところはいくらでもあるのかも知れない。

そんな田舎道を一匹の河童が歩いている。というとちょっと違うなと思うのは、歩いているという部分で、まあ歩いているのには相違ないのだけども、もっとなんていうのかな、歓喜を爆発させつつ前進しているとでも言うのかな、両の手を上に上げ、掌を太陽に向け、天を仰いで首を左右に振りつつ、若干内股で、腿をそんなにはあげないでリズミカルに前進していく。つまり歩いていると言うよりは踊っているという方が近く、そのようにして前進しながら河童はときおり、「ビバ! カッパ!」と叫ぶのである。

ではなぜ河童はビバ! カッパ! と叫ぶのであろうか。通常に考えれば、河童というものを礼讃している、河童という存在を謳歌している、だからビバ! カッパ! と叫ぶ、というのがもっとも理解しやすいのだけれども、もちろんこの場合はそんな上っ面の脳天気な気分で、ビバ! カッパ! と叫んでいるのではない。

河童はむしろ泣きたいような気持なのだ。河童であることがたまらなく厭なのだ。

むしろ、なぜ俺は河童なのだ、という気持の方が強いのだ。なぜかというと、大体において河童というものはそう人里を往来するものではなく、つまり習性としてあまり人里に出てきたいという気持にならない生き物である。その河童が白昼の人里を、こんな目立つ恰好で歩いていると言うことは、やはり自暴自棄に近い精神状態、或いはそうではなくても一定程度、異常な精神状態、精神錯乱のような状態に陥っているのだろうし、そうなる原因として歓喜というのは考えにくく、やはりなんらかのネガティヴなことがあってそうなったと考えるのが自然だからである。

また河童は単独である。単独者としての河童。だいたいにおいて、ビバ! などと叫ぶ場合、そのビバ! とされる対象に属する者が周囲にいるのが普通である。会社員が午後八時、自宅で、ビバ! わが社! と叫ぶということはないだろう。やはりそれは会社のみんながいる場所で言うに違いない。或いは彼の妻が仮に芳子という名前だったとして、妻のいないところでビバ! 芳子! とも言わぬだろう。しかるに彼は、ビバ! 俺! というのならまだしも、河童仲間がいないところでたったひとりで河童のビバを叫んでいるのであり、どう考えても彼は追い詰められた状態にある、と考えられるのである。

河童がそう思うにいたった理由はいろいろ考えられるだろう。それは小説的な理由なのかも知れない。例えばなにか失態をしでかして河童仲間をはぶかれた。或いは河童であることを理由に好いた女との仲を引き裂かれた。とか。しかしいまはそんな理由などどうでもよい。いま大事なのは彼がそうして河童であることが原因でどん底な状態になったのにもかかわらず、むしろ進んで自らが河童であることを引き受け、そのビバを叫んでいることである。つまり、河童でもいいじゃないか。というか一歩進んで俺は積極的に河童であろう。俺はいまひりひりと河童だ。俺は河童という屈辱的な存在なんだ。その河童たる俺に陽光が降り注いでいる。風が吹きつけている。ビバ! カッパ! ビバ! カッパ! という寸法である。

俺はそのような河童の精神の状態に深く共感するから、何度も何度も、「ビバ! カッパ!」と叫ぶのだ。ビバ! カッパ!

といってではではでは、俺はなぜそのような河童の精神に共感するのか? というと、今日の昼間、俺はまさしく単独者というか、みなにはぶかれた。たばかられた。屈辱的な体験をした。そして自暴自棄のような精神状態になって塀の脇を歩いて帰ってきた。もしあの時点でビバカッパのことに思いいたっていれば、いまよりももっと真正のビバカッパを俺はすることができただろうビバカッパ。塀の脇で両手をあげ、掌を太陽に向け、天を仰いで首を左右に振りつつ、若干内股で、腿をそんなにはあげないでリズミカルに前進して。ビバ! カッパ!

そしてなぜ俺がビバ! カッパ! になったかというとそれは町内を流れるどぶが原因である、というとまあそうなのだけれども、なにもどぶが俺をビバ! カッパ!にしたわけではない、どぶは別に単なるどぶで、まあどぶと言っても周囲をコンクリートで固めてあるし、深さは三尺程度でもけっこうなどぶで、そのどぶが自分の意思で立ち上がって俺をビバ! カッパ! にしにくるわけはなく、俺をビバカッパにしたのは、やはりあの矢細さんたちのせいなのであって、会議室は熟爛していた。空気がよどんで卵の腐ったような匂いが立ちこめていたのだ、こんな匂い自体が誰しも厭だったし、早く会議を終わらせたいと思っていたのだ、であるにもかかわらず、みなだらだらの世間話をして、なかなか本題に入らない、鬼押さんが、「最近は米が値上がりして困るね」というと、村木さんが、「そうですなあ、そういえば最近電圧も下がって電気も暗いような気がします」と言うと、矢細さんが、「ほんとほんと世相が暗いんだから電気くらい、ぱっと明るいとよろしいのですがなあ」などと白々しいことを言うから、なにを白々しいことを言うのだ。早く本題に入って早く終わって各々家に帰って晩酌や趣味の手工をしたいというのはみなの共通の気持なのだから、理事長の矢細さんが司会になってさっさと本題に入るがよかろう、と内心で思いつつ、「ほんとだねぇ。町会で電力会社に掛け合ったらどうかね。集金人に文句言って、払わんぞ、と脅すのも手かも知らん」と話を合わせてやったのにもかかわらず、俺が言ったときに限って誰も返事をしないで奇妙な沈黙。シーンとなってその白い空気感の光景は俺の心を腐蝕させたビバ。カッパ。おかずを炊く匂いが集会所にどこかから漂ってきていて。

でもその間を多として本題にはいるのか、と思ったら入らない、今度はさっきまで黙っていた左庭さんが、「そういえば最近、木枯らしが多いね、木枯らしの日が」というと氣采さんが、「そうね、こないだなんか看板や猫が飛んでましたよ」と言うのは、氣采さんがじきに意味のないそら言を言う癖があるからだが、でも誰もそれを指摘せず、矢細さんなんかは、「あ。そーですかー」などといって、大仰に感心しているし、他の人達も、ほっほーん。とか、それは凄いなどとみえすいたことを言っている。なぜかというとそれは氣采さんの顔がきれいでそういう顔のきれいな女の歓心を買おうと思っているからで、まったくもって助平なおっさんたちだ、「看板は兎も角、いくら風が強いからと言って猫が飛ばされるということはないでしょう」と太い声で言ってやったところ、またぞろ、全員、酢と千振を同時に飲んだような顔をしてしーんとなり、誰ひとり俺の問題提起に答える者がなく、俺の心がまた腐った。ビバトーキョービバキョート。

不自然なくらい誰もなにも言わず、その間、矢細さんが意味ありげな目くばせを村木さんに送って今度こそ始まるのかと思ったら、まだ始まらない、横安部さんが、「宮リーのひだり寝も右ねのおや球が鈍角に柔気するでしょ。たいしたものだと思うよ」と訳の分からぬことを言った。至極当然のことを言った俺ですら鹿十(しかと)されたのだからこんな訳の分からぬことに答える者はないと思いきや、意外にも、議論が沸騰、「いっやー、右ねの柔気はいくら宮リーでも至難の硬機するでしょ」「でも宮リーはよくやってる。誉れだわ。あんな蛮菜で勅薦もなしに」「それはそうかも知らんがひだり寝が柔機するというのは問題でしょ。やっぱ」「っていうか、柔機しないでしょ。やっぱむしろ硬気するのでは。やっぱ」「っていうか、鈍角に硬気するということは鋭角に柔気するっていうことでしょ。それでも悪いわけ? 宮リーは?」「悪いとかいいとかいう問題じゃないけどね」「でも凄いよね」「っていうか、ちょっと待って欲しいんだけれども、柔気しないで硬機するっていうけど、硬機すると必然的に柔機するよねよね? それって、逆に言うと柔気してるんじゃないの」「誉れだわ、やっぱ」

なんのことを言っているのかサッパリ分からない。喋っているのは確かに日本語なのだけれども、その意味するところがまるで分からない。俺は苛々すると同時に孤独で悲しい気持になった。しかし彼等に、訳の分からぬことを話すのはやめて早く本題に入れ、とは言えなかった。言うといまは俺のなかで保たれている怒りと悲しみのバランスが崩れ、まるでいじめられ子が泣きだすのを堪えているような力みかえった顔をしてしまうに違いないからで、そんな顔をしたらかっこが悪いからである。俺は我慢した。ともすれば顔が、いじめられ子が泣きだすのを堪えているような力みかえった顔になりそうなのをこらえつつ。

「くだらない話はいい加減にしてさっさと本題にはいったらどうです?」でもついに堪えきれなくなった俺は怒鳴った。熱い悲しみのマグマが心の中で傾いて顔面に流れた。顔が真っ赤になって形がくずれた。悲しみの火砕流、怒りの土石流。

みなが黙って俺の妙な顔を見た。ますます顔面がおかしなことになっていく、みんな、くんな。顔面、崩壊すんな、と思った瞬間、矢細さんが、

「ではそろそろ本日の会議の方、始めたいと思います」と言ってやっと会議が始まり、俺の顔面は崩壊を免れた。俺の顔面を。頭から打ち消してくれ。

「本日の議題は、ええっと、あのまあどぶの問題であります。すなわち、いわゆるあのどぶでございますが、心無い人が自転車や三輪車、電子レンジ、テレビといった家庭のゴミをみな投げ入れましてですね、もう山のようになっておりまして、さらにこないだなどは、軽自動車を捨てた人もあって、水の流れも淀んでヘドロが堆積しましてですね、残飯や汚らしい長い藻のようなものがぬるぬる発生しましてですね、表面に白い泡が浮いて悪臭を放っておるような訳でございまして、著しく町内の美観を損ねておるわけでございまして、また、子供さんやなんかひょっとこの、ばまりこんだ場合などのことを考え合わせますと、非常に危険でもあり、なんとかせんければあかんなあ、とわたくしなども常々家内と話しておりましたのですが、このあたりみなさんにはかってなんとか対策を見出していきたいのですが、そのあたりいかがなものでございましょうか」と矢細さんが言うと、鬼押さんが言った。

「それは由由しき問題です。なんとか解決を図らんといかず、早く結論をださんければなりません」

「まったくそのとおりです。早く対策を打ちださなければなりません」と言ったのは村木さんである。田舎芝居のようだった。みな勿体ぶった口調で当たり前の、別に言っても言わなくてもいいようなことを言っている、左庭さんが、「まったくそのとおりです。私の家なんて、もう臭くて臭くてかなわない」と言うと、氣采さんが、「ほんとうにそのとおりです。私の家では匂いで花が枯れました」とまた有り得ない嘘を言って胸を反らした。すかさず、矢細さんが、

「ほっほーん。それはお困りでしょう。さっそくホントになんとかしなければなりませんな」などとみえすいたことを言う。でも顔が崩壊しているので意見を言えない。俺は、チッ、と言って右手を握って左下に顔を向けた。床に豆の殻が落ちていた。折れた花が落ちてしおれていた。

「じゃあさー」と声をあげたのは横安部さんである。

「じゃあ、あれじゃないですか。つまりゴミをこれ以上投棄しないような、投棄を禁止するというような看板を立てたらどうですかね」

「でもそれくらいで投棄がやみますかな」

「そらやめろと書いてあるのだからやめるでしょう」

「やめんかったらどうすればよいのでしょう」

「見つけ次第、注意してそれでも聞かぬ場合は殺せばよいのではないですか」と言って横安部さんはひっひっひっと笑った。

「その看板の設置費用はどうしますのでしょうか?」

「それは町会で負担して貰うしかない」

「町会費はあといくら残ってます?」矢細さんに聞かれて会計係をしている村木さんが答えた。

「先月、例外の入費がかかったのであと三十円しか残っていません」

「ぜんぜん足りないな。看板だけでも、金物屋に頼んであとペンキ屋に頼んだら三十万円くらいかかるでしょう。値切っても十八万円くらいか」

「そんなにかけたところで看板くらいじゃどうしようもないし、それに」と、鬼押さんが言った。

「今後のゴミはそれでいいとして、いまもうすでに堆積してしまっている自転車や冷蔵庫をどうするかが問題でしょう。現にいまそれが問題となって、悪臭を放ったりヘドロが堆積したりしているわけでしょう? それをなんとかしなければ話にならんじゃないですか」

「うーん。それが問題なんだよね。うーん、困った」

「困った困った」

とみなで腕を組み、うなだれて困った困ったばかり言っている、これにいたって俺は我慢というものができなくなり、ついに言った。

「みなで困った困ったばかり言ってたって仕様がないだろう。どぶさらえをすればいいだけの話じゃないか」

誰も返事をしなかった。みな俯いたり不自然に目をそむけて窓の外をみたりしている。俺は破れかぶれになって言った。

「だいたいあんたらさー、くだらない、どうでもいい話をするときはいろいろ意見を言う癖にこういう具体論になるとなんにも言わないで困った困ったばかり言ってるんだな。どぶぐらいさらえろっつんだよ、あほが」

三度。薄笑いのような沈黙、どこからか初心者のクラリネット? ばかのように間延びした音楽が聞こえてきて、他の人はそのクラリネットの側にいて俺ひとりが孤独に激動する精神を抱えている。

「まあ、そうは仰るが」と、だいぶ経ってから矢細さんが言った。

「どぶをさらえる、と言ってもそうは簡単にはいかんでしょう」

「なにが簡単にいかんの? どぶさらえというのはどぶを浚えばいいんだよ。そんなものはあほうでもできる」激昂してはいかん。激昂したほうが敗けだ、と思いつつも激昂して大きな声で言うと、矢細さんは、

「まったくあんたの言うとおりだ。どぶさらえは早急に実施すべきだ」とわざとらしいような大仰な口調で言い、みなもこれに同調、「まったくその通りだ」「早急な対策が必要だ」などと口々に言った。

まったくもってくだらない奴らである。問題点は明白で、本来であれば会議はここからスタートしなければならぬのだ。それをば訳の分からぬ世間話に耽ったり、回りくどいことばかり言って問題を直視しようとしない。俺がいたからいいようなものの俺がいなかったらこいつらは一晩中でも喋っていただろう、顔が直って鼻がうごめいた。しかしまた渋滞。誰がやるか。いつやるか。という段になって、話が前に進まなくなった。日を決めようとすると、必ず誰か都合の悪い人が出てくる。結婚式ゴルフ遊山旅行句会パーティー知りあいの引越家具の配送などがあって駄目なのだそうだ。

「結局、なにも予定が入っていないのはあなただけですよ」と言われてむかつく。別に俺だって遊んでいるわけではない。俺は家で仕事をしているから家にいるだけであって家にいることがイーコール暇ということにはならない。

「俺だって別に暇というわけではないよ」

「でも家にいるんでしょ」と氣采さんが言った。

「家にはいるが、家で仕事をしてんだよ、こっちは」

「でも家にいるってことは、ねーえー」と氣采さんは、主婦特有のやり方で途中の論理を全部省略して隣の富久縞さんにむかって首を傾げて上下させ、同調を求めるような仕草をした。女が女によくやる仕草。ねーえー、なんつって。でも富久縞さんは、完全に同調はしない、ええ、ええ、と曖昧に肯いただけ。ところが男である矢細さんが、

「まあそういうことになりますかな」とにやにや笑い、

「そういうことで、じゃあ、まあ、どぶさらえはあなたが発案者でもあるわけだから、あなたにやってもらうということでよろしいですかな」と、驚くべきことを言った。頭のなかで百万言がうごめいて出口を求めてのたうちまわって、そうなるとなにから言ってよいのか分からない、ようやく、「なんで俺だけなんだよ」と言うと、矢細さんはしゃあしゃあといった。

「だって他のみんなは用事があるし、できるのはあんただけだ」

「っていうか俺だって用事はあるんだよ。でもさー、っていうか、みんなのためのどぶさらえをなんで俺が、俺ひとりがやんだよ。え? ぜんぜんわかんねぇよ」

「わかりたいですか?」

「わかりてぇよ」

「私としてはこれは言いたくない、っていうか、こういうことをこういう場所でいうのはよろしくないのでやはりやめときますかな」と言うのが、勿体ぶりだということは分かっている、しかしそういわれると聞きたいのが人情というのはそういう修辞を超越して生理と精神を蝕む、「なんだよ、言えよ」と、わざと言葉を乱して聞いたところ、矢細さんは、いや、ううむ、と茶道的躊躇をしているなあと言うことが相手に分かるような田舎の役人のようなわざとらしい感じをわざと示しつつ言った。

「実はあなたが来る前にみんなで話してたんですけどあなたは町会費をもう六ヵ月も滞納されてますよねぇ。ということはやはり平等という観点から考えてもどぶさらえはあなたにやって貰わんと公平な感じはせんわけですよ」

俺はうぐぐとなった。確かに俺は月額三千円の町会費を滞納している。しかし、それくらいの滞納はしょうがないというか、それくらいまあいいじゃないか、と思うがしかし他のものが支払っているものを俺ひとりが支払っていないということは確かに悪く、俺だって払おう払おうとは思っていたのだが、たまたま都合が悪かったり、お金があっても別の用事があって持っていけなかったりそんなことが重なって払えなかったのだ。

全員が俺の方をみていた。俺とみんなの間に薄い膜のようなものがあってその向こうでみんなが俺を嘲笑しているみたいな感じだった。部屋の隅で埃が縞に踊っていた。そのとき俺はまだビバ! カッパ! という概念に辿り着いていなかったが、実は俺のビバカッパはあのときにはじまっていた。


Excerpted from Jōdo (Kodansha, 2005) by permission of Ko Machida and Kodansha.

『浄土』(講談社文庫、2005)所収「どぶさらえ」より町田康氏と講談社の許可を得て抜粋掲載