シー

小林エリカ

Illustration by Emma Roulette

彼女が六十歳を過ぎて夫を失ったのは三年ばかり前のことだった。それは実際数年にわたる介護の末のことだったが、旦那の下の世話なんてもううんざりだしせいせいした、と彼女は葬式の日に笑って見せたので、二人の娘たちは心から彼女のことを心配した。気丈に振舞う彼女に友人たちは、孫のひとりでも生まれれば、きっと何もかもを忘れられるわ、と慰めの言葉をかけたが、しかし実際上の娘に女の子どもが生まれたところで、それほど彼女の心は晴れはしなかった。

そんな彼女が車の事故で死んだのは先月のことだった。上の娘が子どもを抱えたまま病院へ駆けつけた時にはまだかすかに意識があったが、下の娘が到着するより前に彼女は死んだ。

ところで彼女が乗っていたのは二人の娘たちも知らない男の車だったことが、皆を驚かせた。そのうえ彼女の遺体からは血よりもなお噎せ返るような安っぽい香水の匂いがして、葬式の会場中がその匂いに満たされ続けたのだった。



*

定子 はゆっくりと瞬きをする。目を開けても閉じてもあたりは暗闇だ。闇の中では、数分が何十年のようにも何十年が数分のようにも感じられる。どれほどの時間が経ったのか、うまく思い出せない。

あの喫茶店の光景は、隅々まではっきりと思い出すことができるのに。そう、壁の染み、それからあの薬を飲む時の結露したグラスの水滴まで、くっきりと。

ミニスカートの裾を引きずり下ろす定子の目の前で山田と名乗る男は、あらかじめメールで伝えていた説明を馬鹿丁寧に一言一句繰り返していた。山田は前歯が少し飛び出していて、年齢は定子と同じく二十代後半といったところに見える。定子はその前歯を思い返しながら、少なくともこんな男といるところを妹の理子に見られなくてよかった、と安堵するのだった。なぜなら夫どころか理子にさえ内緒で『ほめろす』に登録したことが万が一にもばれたら金輪際子どもを預かってはくれないだろうから。

「こちらのお薬を服用いただきますと十分程で視界が霞んできて、二十分ほどで完全に視界が遮断されます。完全に視界が遮断されたところで、本日ご担当させていただく者が参ります。そこから担当の者の案内で海までドライブさせていただきます。」

インターネットで見てはいたものの、定子ははじめてその青みがかった錠剤の実物を見た。目を見えなくする薬が俗称でSEE と呼ばれているのはなんて皮肉なことだろう。

この薬が出まわりはじめたばかりの頃には議論が繰り広げられたものだった。マニアの間では目隠しのかわりにシーを服用してセックスすることが流行したのは勿論のこと、視覚障がい者の生活体験プログラムに活用されることが期待されたり、犯罪に悪用される可能性を懸念して危険ドラッグ扱いにすべきだと署名運動が展開されたりもした。果てはシーを積極的に服用する宗教団体まで現れ、わたしたちが普段如何に何も見ていないかを謳った。暗闇の中にこそ真実は存在し、視力を手放してこそはじめて本物の世界が見えるのだ、と。

シーを用いた性的なサービスから健全で教育的なカフェに至るまで様々な店が乱立したが、このブームは一年程しか続かず大方の店は摘発されるか潰れたけれど、『ほめろす』をはじめ、ほんのわずかな店だけは未だ合法的に営業を続けていた。

「安全のために車内にはカメラが設置されており二十四時間体制で監視しておりますし、万一の際には私どもが駆けつけることができるよう待機しております。また、ご気分が悪いなどの緊急時には車内からもスムーズにご連絡いただけるよう、担当の者より後ほどご案内させていただきます。また視力の遮断効果は三時間です。視力が回復されるまで車内で過ごしていただけるようになっておりますのでご安心ください。何かご質問や不安な点がございましたらなんでもおっしゃってください。」

闇の中で山田の台詞を反復しながら、定子はただひとりきりだった。シーを服用してそのまま失明した若い女の記事を思い出す。何万人かにひとり起こる副作用が原因らしかったが、その何万人にひとりが自分でない保証は何もない。闇の中で不安が弾ける泡のように次々湧き上がっては消えてゆく。定子の目の前のテーブルの上には飲みかけのコーヒーも水の入ったグラスもあるはずだった。けれどその全てに確証が持てなくなり、今自分がいったいどこにいるのかさえわからなくなってくる。ゆっくりと手を伸ばし、そのひとつひとつを指先で確認するが、その指が離れた瞬間から、また全てが不確定になる。

定子はまるで迷子になった子どものように心細くなってくる。闇の中で過ぎてゆく一瞬一瞬を正確に思い返そうとしたが、視覚を伴わない記憶をいったいどうやって整理したり思い出せば良いのか、定子はわからないことをはじめて知るのだった。

男がやってくるまで果たしてどれほどの時間が過ぎたのだろうか。それはものすごく長い時間にも、ほんの一瞬のようにも感じられた。

「はじめまして。ジェレミーと申します。」

それは低く澄んだ流暢な日本語だった。普段ならばジェレミーだなんて洋風気取り馬鹿げている、どうせ森田権太だとかそんな名前の方がずっと似合いそうな顔だろうに、と失笑するところだが、その時の定子はその名の響きに感動さえ覚えた。

ジェレミーに促されるまま定子はすがるようにしてその手を取る。指を絡ませる。その時、定子は思わず震えながら吐息を漏らした。何もかもが不確かな闇の中で、誰かの手に、指に、身体に、熱に、触れることが、こんなにも安堵と興奮をもたらすなんて。



*

彼女の二人の娘たちは両手に軍手を嵌めている。彼女の葬式が終わって間もなく、その家を引き払うことに決めたので、香水の匂いが未だ残る部屋をみんな掃除する必要があったのだ。

彼女のベッドの枕元の引き出しからはいとも簡単に一枚の名刺が出てきた。

『ほめろす』

分厚く光沢のある黒い紙に光る金の箔押しが施されている。

下の娘はマスクを嵌めたままその名刺を手に憤慨する。

「別にママだって大人なわけだし、再婚しようが、何しようが構わないけど、マジでありえないわ。」

『ほめろす』はSEEを服用し、パートナーの男と共に海へドライブデートをするというデートクラブだ。テレビや週刊誌にも何度か取り上げられていたので、二人の娘たちもその名は知っていた。

上の娘は彼女の洋服棚を開け、これまで素手で丁寧に掴まれてブラシをかけられていたその中身を軍手で掴みながら曖昧に答える。

「まあでも、そんな風に軽蔑しなくたっていいじゃない。パパが死んでからきっと寂しかったのよ。」

「寂しいとか寂しくないとかそういう問題?第一あんなに金つぎ込んで、意味わかんない。第一ママが一緒に死んだあの男の写真見た?!警察に見せられて、わたしマジひいたもん。わたし最悪死ぬならイケメンと一緒がいいわ。事故とはいえあれじゃ浮かばれないね。」

「まあ禿げてはいたけど。でもどうせママは顔なんて見てなかったわけだし。」

「だからこそよ!」

二人の娘たちは一瞬沈黙してから堪えきれなくなって思わずくすくすと声をたてて笑った。

「それにしても、ママ、白内障で失明しかけた時には、あんなに大騒ぎしてたくせに、今度はわざわざ薬飲んで失明ごっこ?死んだパパが可哀想よ。」

下の娘は不満そうにマスクの下で口を歪めた。

「パパだってキャバクラとか行ってたじゃん。」

上の娘もマスクの下で口を歪める。

「若い頃の話でしょ。」

「年寄りだって性欲あるのよきっと。」

「親は別。」

「ていうか男は勃たなくなったりするけど、女って幾つまでやれるもんなのかしら。」

二人の娘たちはそれから顔を見合わせた。

そしてそれぞれは彼女がセックスをする姿を、あるいはかつてセックスをしていた姿を一瞬だけ想像する。この二人の娘たちは紛れもなく彼女が彼女の夫とセックスをして生まれた子どもであったが、それを敢えて想像するのは実に奇妙なことだった。

「てかさ、見えないのに海なんかいってどうすんだろ。そんなもんいかなきゃ事故にだって遭わなかったのに。」

下の娘はそう言いながら名刺をベッドの上に投げ捨てると、台所の方へ去っていった。

上の娘はもはや誰も眠らなくなって久しい彼女のダブルベッドをしばらく眺めていた。それからそこに投げ捨てられた『ほめろす』の名刺を軍手のまま拾い上げ、こっそりとポケットに滑り込ませるのだった。



*

「海です。」

ジェレミーの声が告げる。

「海。」

定子は闇の中で瞬きしながら、海、と口の中で繰り返す。そうしながらその手で、指先で、ジェレミーの身体に触れて、その存在を確かめたい気持ちに駆られていた。

「右手に今、海が見えてきました。」

ジェレミーの呼吸や唇を動かす音さえ聞き逃すまいと、定子は耳を澄ます。

そうするうちに定子の身体の中に、光に満ちた海の光景がゆっくりと広がってゆく。今朝は曇り空だったし、季節は秋だったので実際にはどんよりと灰色の汚れた東京の海が広がっているのかもしれなかったが、定子の中にだけはどこまでも青い海だけがあるのだった。深く息を吸い込む。車独特の匂いがする。高速道路を降りたのだろう。車が振動で微かに揺れている。

定子は夫と二歳半になる娘と一緒に車を借りて海へ行こうと約束をしていたことを思い出す。けれど、定子の母が突然死んだので葬式や家の片付けやらに追われて結局のところ、夏には海のかわりに近場のプールへしか行くことができなかった。帝王切開の跡を隠すためビキニではなくワンピース型の水着姿でプールサイドに寝そべりながら、苛立っていたのは夫でも娘でもなく定子自身だった。

「それにしてもママが死んだおかげで私たちは海へも行けずこのありさまよ。」

娘は髪からプールの水を滴らせたまま、小さな手を定子に投げ出しきつく目を閉じている。いっぺんだけよ。定子は娘の小さな手のひらの上にハートのマークを描いてやる。

娘はゆっくりと目を開けると大きく叫び声をあげる。

「ハート!」

それからすぐさまもういっぺんと繰り返し、定子の手のひらの上に手を載せ、再びきつく目を閉じている。

定子の夫は困ったように笑ってビールを飲んでいる。

「まあまた来年行けばいいじゃん、海なんて。」

来年なんて、次の夏なんて、本当に来るのかしら。ママが突然死んだように、私たち家族の誰かひとりが来年にはもういないかもしれないのに。

そうだ私たちには未来なんて何一つ見えないのだから。

それから定子は、潮に導かれるようにして過去の記憶の中を漂い始める。

夏の太陽の光。中学生の定子は妹の理子と二人で車のバックシートに凭れかかっている。父がハンドルを握り、母が助手席でミニスカートの上に地図を広げている。

理子は柔らかな小さな手で定子の手を取りながら怒ったように言う。

「ちゃんと目閉じてよね。」

「閉じてるってば。」

定子はもう一度きつく目を閉じてみせる。瞼の裏は真っ暗ではなくて太陽の光が透けていて、色とりどりの小さな粒が見えた。

「何してるの?」

父の声が聞こえる。

「ヘレンケラーゲーム。」

理子が答える。

「何それ。」

助手席から母の声。

「ウォーターって手のひらに書くみたいなこと。」

理子は投げやりに答えながら、指先で定子の手のひらに文字をひとつずつ書いてゆく。

闇の中で、ひとつひとつのものが名づけられてゆく。井戸から湧き出る冷たい水はウォーターになる。手のひらに触れる自分ではない誰かの感触。その指先が、ひとつひとつの名を、伝えてくれる。

定子は手のひらに意識を集中する。

S -E -A。

SEA。海。

定子はゆっくりと目を開ける。

あの時、定子の手のひらに書かれた文字は本当は何だったっけ?

右手の窓の向こうに海を見る。

父が片手をハンドルから離して、レバーを回して窓を開ける。

「海だよ!」

窓から強い風が吹き込んで母の膝の上の地図を舞い上げる。

理子はけだるそうに定子に耳打ちをする。

「はやく家に帰りたい。だいいち、わたし車って嫌いよ、酔うし最低最悪。」

理子は海を見ようともせずに定子にその左手を投げ出すと小さな眉間に皺を寄せてきつく目を閉じていた。そこへ窓から射しこむ太陽の光があたってゆらゆら揺れている。母が笑いながらゆっくりとこちらを振り返る。母の一つに結った髪から溢れる後れ毛もまた光の中でゆらゆら揺れている。けれど、定子はまだ若い頃の母の顔をうまく思い出せない。



*

彼女の上の娘はひとりきりになったことを確かめ、ポケットから『ほめろす』の名刺を取り出した。箔押しの文字が微かに浮き出ているのを指先で撫でてみる。それからそこに記されたメールアドレスにメッセージを送り登録をするのだった。

こんなことをしたのが下の娘にばれたらもう金輪際子どもを預かってくれなくなるだろう。



*

ジェレミーがスイッチを押す音が聞こえ、車内に窓の向こうから風が流れ込んでくる。風は潮の匂いがした。

定子は深く息を吸い込み闇の中で瞬きする。そして遂に堪え切れなくなって、ミニスカートの膝の上に置いていた右手をゆっくりとジェレミーの方へ伸ばす。しばらく定子の手は宙を彷徨った。しかし、それはすぐにジェレミーの暖かな左手に包まれた。二人の指先が絡まり合う。時折強い風が吹いて定子の一つに結った髪から溢れる後れ毛を揺らした。

定子はゆっくりとジェレミーの左手を膝の上へ引き寄せると、その手のひらを開いてしばらく両手で撫でた。

「うちの子、ヘレンケラーゲームが好きなの。手のひらに絵や文字を書いてそれをあてるのよ。」

定子は両手でゆっくりとジェレミーの手のひらを開く。

定子はそれから指先を触れる。ジェレミーはくすぐったがって声をたてて笑った。定子もつられて笑う。

こんな風に笑うのは、いったいどれほどぶりのことかしら。

定子はもう一度深く息を吸い込む。すると、今度は潮の香りよりもなお自分のつけている香水の匂いがするのだった。

定子はゆっくりとその手のひらに、指先で文字を描く。

「S-」

定子が瞬きをしながらその指先で次の文字を描き始めたその瞬間、定子の身体が大きく揺れた。何かに叩きつけられる。闇の中で一瞬の時間が引き伸ばされてゆく。ブレーキを踏む音と、衝撃音が響く。ジェレミー。どこにいるの?

いや、私の隣にいるのは、もっと違う名前の誰かだったかもしれない。アンドレ?トニー、いや、ヨンだったか。私はこうして誰かの手のひらに文字を書くことを、これまで、もう何回、いや何百回繰り返してきたのだったかしら。

闇の中で、はじめてジェレミーと海へドライブしたあの日から、どれほどの時間が経ったのか、うまく思い出せない。

その手から、身体から、指が、名が、ゆっくりと何もかもが離れてゆく。指先を伸ばし、何かを掴もうとしたら、そこにはどろりと生暖かいものが触れた。サイレンの音が薄れゆく記憶の中で響いていた。



*

「ママ。ママ。」

闇の中で果たしてどれほどの時間が経ったのかさえわからなかった。ママと呼んでいるのは定子ではない。定子がママと呼ばれているのだ。瞼を閉じたまま記憶の中を漂いながら、そうだ、私はもう娘ではないのだ、母なのだ、とぼんやり定子は考える。

夏。あれから私たちは海へ行ったのだったかしら。

「ママ。」

いつから私は娘でなくなってしまったんだろう。私はまだ二十代のあの頃のような気持ちがするのに。いつの間に私はこんなに年を取ってしまったんだろう。

「ママ、お願い、目をあけて。」

私が産んだ娘の声。けれど定子は目を開けるのが恐ろしかった。その娘に女の子どもが生まれたのはいつのことだったかしら。

通り過ぎてゆく人たちの会話が耳の奥に聞こえる。

「この安っぽい香水の匂いときたらひどいもんだ!」

もはや目を閉じても開けても何も見えるような気がしない。

彼女は瞼のかわりにゆっくりと手のひらを開く。そしてそこに誰かの指が触れるのをひたすら待っていた。