正当にこわがることは可能 か?

玄侑宗久

Photograph by Sherman Ong

物理学者であり、随筆家でもあった寺田寅彦は、1935年に浅間山の噴火について、次のような言葉を書き残している。

ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい。

寺田氏にはX線についての研究論文もあり、放射線の専門家でもあったわけだが、これは放射線についてではなく、火山の恐ろしさについて述べたものだ。しかし私は、今回の東日本大震災、とりわけ福島第一原子力発電所の水素爆発、水蒸気爆発以後、この言葉をしきりに憶いだして仕方がないのである。

悲しいことに、今回の事故による放射性物質の飛散で、約1万人の子どもたちが福島県外に避難してしまった。残った子どもたち、というよりその親が、異様なほどに怖がっている。一方で、さほど怖がらない親たちの子どもは、極端にいえばランニング姿でサッカーをしている。その横を、帽子とマスクを着けた子どもが、腕にも腕巻きのようなものをして足早に通り過ぎるのだ。ランニング派は「こわがらな過ぎ」なのかもしれないが、帽子・マスク派は明らかに「こわがり過ぎ」だろう。

東北大学の研究者に聞いた話だが、3月15日に飛散した放射性セシウムのうち、地面、ゴム、プラスティック、コンクリートなどに付着したものは、ある種化合のような変化を果たして固着し、風雨などで流れたり飛散したりはしない状況らしい。アスファルトに落ちた場合は固着せずほとんど流れており、これはあらかた下水の汚泥などに入ってしまって現場には残っていない。今なお放射性物質が飛散しかねないのは、土が露出していない森の中だろうというのである。

そうなると、初期のあちこちに飛散していた頃とは違って、マスクや腕巻き、帽子などは何の役にも立たないことになる。それらは放射性物質の防御には役立っても、放射線(γ線)は防げないからである。しかも多くの子どもたちは、同じマスクや腕巻きを毎日していたりするから、かえって付着した放射性物質からの放射線を受け続けているのではないか。マスクも帽子も腕巻きも、しょっちゅう変えなければかえって危ないのである。ということは、現状そのような重装備で通学している子どもたちは、放射線被曝の危険も多く、またこのところの暑さで熱中症の危険も増していることになるだろう。

先日保護者参観の授業に出席したという親に聞いたのだが、授業では窓を閉め切り、教室では2台の扇風機が蒸し暑い空気を掻き混ぜていたという。子どもも親も汗だくになり、こりゃあ堪らんと終業と共に教室を逃げ出したというのだが、あとで子どもに訊くと「いつもは窓開けてるよ」と言われ、呆然としたという。つまり、神経質にマスクなどかけたままの母親に配慮し、気を遣って窓を閉めていたらしい。

「こわがり過ぎる」人にはなんとなく反論しにくく、本人も大まじめだから、正義として扱われやすいのがとても困る。

ところで放射能が怖くて福島県からよそに避難した人々は、今頃どうしているのだろう。調べによれば、全国44都道府県に散らばったというのだが、それを簡単に「こわがり過ぎ」と批判することは私にはできない。ただ沖縄にまで移住している状況を想うと、さぞや見知らぬ土地で、いろいろ「こわい」ことも多かろうと思う。私自身、入院している父や檀家さんがいるから、出るわけにはいかない、そう覚悟したときから不思議なほどにこわくなくなった覚えがある。だからこそ県外に避難した人々の不安が、さぞやと思うのである。

しかし東京在住の人々が学校の表土を剥ぐと言いだしたときには、さすがに「待ってくれ」と言いたくなった。私の勝手なイメージだが、それはまるで家族が亡くなって項垂れている普段着の人々の前に、さほど親しくもない人がいきなり喪服で現れたような印象である。今の状況に耐えている福島県民にすれば、これはちょっとやりきれない。少なくとも東京の学校の校庭の放射線量は、福島県内の学校の数10分の1以下だろう。怖がるのは勝手だが、少しは遠慮してほしいという気分も抑えきれなかった。

年間20mSvでは高すぎると思う父兄たちが学校に掛け合い、また多くの市民の抗議などもあって、各市町村長の判断で表土が削られ、それを追認する形で文科省が費用をもつと明言した。そうして年間1mSvをめざすことになったわけだが、親たちの心配は収まらず、むしろどこまでも拡大している。まるで、もともと自分たちは放射能ゼロの環境にいたと錯覚しているかのようなのである。

しかしどうか冷静に考えてみていただきたい。東京・ニューヨーク便に1度乗れば、約250μSvの被曝である。2往復すればもう1mSvではないか。またバナナ1本には約40ベクレルの放射性カリウムが含まれている。乾燥昆布など、放射性ヨウ素を取り込むまいとたくさん食べたかもしれないが、あれも1kg当たり2000ベクレルなのである。どう考えても、東京の人々の場合は「こわがり過ぎ」のような気がする。「正当にこわがる」ためには、それなりの知識や情報が必要なわけだが、世の中には超悲観論も出回っており、「こわがり過ぎ」たい親たちは、そちらに飛びつくようなのである。

原発周辺の人々は、これまでどちらかといえば超楽観論に支配されていたわけだが、彼らも「正当にこわがる」ことなどできなかった。現に直面している危機について、なんら情報も知識もなく、ただ至上命令として「とにかく避難すべき」とされたのだから、これはもう悲惨である。

たとえば原発建屋の爆発直後、浜通りの福祉施設から80人ほどの入所者がバスに乗せられて避難した。しかしバスのなかで亡くなった人もあり、最終的には80人のうち20人ものお年寄りが5時間もかかった移動の後に亡くなっている。たぶんこの場合、多少は被曝してももう少し時間をかけ、人々の状況を見ながらゆっくり移動すべきだったのだろうが、緊急時で「爆発」「メルトダウン」など恐ろしい言葉が頭に浮かんでいる状態では、難しい判断だったと言わざるを得ない。

「前門の虎、後門の狼」と言うけれど、虎をこわがり過ぎるあまり、狼への注意が疎かになったということだろう。

当然、虎と狼双方の怖さを知悉しているせいで、避難を勧められても身動きできない人もかなりいた。「移動して避難所なんか行ったら、お爺ちゃん死んじゃうよ」というケースである。事情はそれぞれ違うにしても、「ここ」を離れると著しく生きにくくなる。そういう人々にとっては、移動や避難所暮らしそのものが命の危険を招く。

もしかすると彼らは、「正当にこわがって」いるからこそ動かないのか、とも思う。噴火でも津波でも放射能でも、おそらくある種の危機を経験した人々にとって、その後いちばん問題になるのは、どこで死ぬか、ということだろう。人によっては「どこで」よりも「この犬と」ということもあり、そのような生き方も充分に尊重されなくてはならない。どこで誰と死ぬかを本人が決めるのは当然の権利だし、実際「ここで牛たちと死ぬ」と決めて、今もなお20キロ圏内の警戒区域に住みつづけている人もいる。この人たちは、放射能を「こわがらな過ぎ」と思われるかもしれないが、私には妙な場所で自分らしくなく死ぬことを正当にこわがっているようにも見える。不安も恐怖も、人生という総合的な観点で見なくてはよく分からないのである。

しかし果たして今回の場合、避難者たちはそのように総合的に判断する時間をもち得ただろうか。誰もが放射能の危険と「ここ」を離れることによる喪失とを天秤にかけ、じっくり判断したのなら問題は少ないが、そんな時間はまったくなかった。とりあえず津波から避難し、その避難所からエプロン姿でバスに直行した人もいる。誰もがすぐに戻るつもりで故郷を離れ、そのままなのである。彼らは今、避難所や仮設住宅に仮住まいしながら、「ここは死に場所じゃない」と、私にまで苦悩を打ち明ける。「正当にこわがる」その時間も機会も与えられなかった人々は、あまりに哀れである。

ここまでつらつら書いてきて思うのは、はたして人間は本当に「正当にこわがる」ことなどできるのだろうか、ということだ。

今がどの程度こわがるべき状況なのか分からないが、少なくともこれを書いている私はこわがっていない。今この部屋は約0.3μSv。そして脈拍も血圧も発汗量も、たぶん正常である。放射線量にさほど変化がなければ、同じようにこわがりつづけるのが「正当」なのだとすれば、私にはそれはできそうにない。たとえば10年後の発がん率の上昇を案じ、日々こわがり続けることなど誰にできようか。

もしかすると、それができる人々が最近増えている自殺者なのかもしれない。今年の5月は去年より500人以上、全国で自殺が増えた。岩手県や宮城県は去年と変わらないのに、福島県だけは40%も増えているのだ。彼らが「こわがり過ぎ」で私が「こわがらな過ぎ」なのかもしれないが、それなら「正当にこわがる」とはどういうことなのだろう?

もしかすると、炉内温度摂氏2700度とか、半減期30年、2万4千年、などという原子力を巡る現象そのものが、普通の人間の想像力では「正当にこわがる」ことのできないものではないのか。そうでなければ、誰も収束現場になどいられないだろうし、行かせることもできないだろう。「こわがらな過ぎ」の人々が同じく「こわがらな過ぎ」の人々を次々に養成してこれまでも維持管理してきた。おそらくあれは、この国では「正当にこわがる」ことが認められなかった代物なのである。

地震や津波の対策をどのように講じようと、あれは今後も「こわがり過ぎ」の人には恐ろしく、「こわがらな過ぎ」の人には今のままでも怖くないのだろう。つまりあれは、寺田寅彦の言う科学的な態度では、ずっと扱われてこなかったのである。