円城塔 誌上インタビュー

岡本小百合

Photograph by Kodansha

Q1. 無活用ラテン語で(またはその「日本語訳」で)簡単な自己紹介をお願いできますか?

Heus!

......いえ、本当に日本語以外駄目なんですよ。

Q2. 『道化師の蝶』のASYMPTOTE掲載部分(第一章)は、この「無活用ラテン語」からの翻訳という設定になっています。ご執筆に当たり無活用ラテン語、またはその日本語訳を何か具体的にご参考になさいましたか?

いえ、概説を眺めた程度です。無活用以前に、まずラテン語をあまり知らないのです。 ラテン語と無活用ラテン語が並んでいたとして、英語とベーシック・イングリッシュが並んでいたときのような違和感を感じることはまだできません。活用を覚えていない初学者が使うラテン語はまず無活用ラテン語のようなものだとも言えます。

人工言語から日本語への翻訳というのは、あまりないのではないでしょうか。ですから、何を参考にしたかと言われると、そうですね、自分の中の明らかに母語ではないカタコトの外国語です。

Q3. (Q.2に関連して。)日本語化されたいわゆる「翻訳(輸入)小説」の文体はご参考になさいましたか?また、「輸入小説」の特徴とは何でしょう?

まず、わたしの書く日本語はいつも奇妙なはずです。それは単純に、わたしがいわゆる日本文学よりも、翻訳小説や理学書を多く読んできたからなのですが。自分の文章の調子が何に似ているかというと、「英語で書かれた物理や数学の教科書の日本語への翻訳文体」ではないかと思います。そうしたわけで、「翻訳小説」の文体は、わたしにとってとてもなじみ深いものであり、むしろ「自然な日本語」は遠いという感覚があります。

たとえばこの文章は、(書面でのインタビューということもあり)とても「日本語に翻訳された文章」っぽいのですが、わざとやっているわけではありません。わたしにとって翻訳調の文章とは、放っておくと自然にそうなってしまうものなのです。ですから第一章は意図的に気をゆるめている、とも言えます。

翻訳小説の特徴は、やはり異質さではないでしょうか。誰かが誰かの声で語っているような、背後にいるはずの人格がぼやけて酔うような感覚であるとか。

Q4. 逆に日本からの「輸出小説」全般の特徴とは?

日本からは、あまり輸出されている小説がありませんよね。特に二十一世紀に入ってからの作品となると。

理由は色々あると思うのですが、積極的に輸出を狙った商品として書かれる小説が少ないことは気になります。「輸出を狙う」というのは文学的には間違った目標であるとされることが多いですが、日本文学は「何も狙わない」ことをよしとする傾向が強すぎたのではないかと思います。これはこれで特質ですが、謙虚にすぎるとも言えるし、全員が禅僧ではないわけです。

特徴としては、そうですね、一言で言うと「弱い」。コミュニティの中の言葉や作法で書かれ、内側に向いています。内部ではとても豊饒ですが、外側から見てそれを魅力と思えというのは、ちょっと無理があるかなあと思います。

Q5. (ある対談中で沼野充義さんがご指摘になっている通り)円城さんの作品群のひとつの特徴は、テーマが非地域所属的であり、また複雑なテーマにもかかわらず文体が比較的直球であることから注釈抜きで英訳化がしやすいという点にあると思います。

このような特徴をもつ円城小説の「輸出」とその展開の可能性については、ご自身でどのようにお考えになりますか?

どうしても妙な小説を書いてしまう性格上、生活の資を求めるならば「輸出」にかけることになります。変な小説を好んで読む読み手というのは、各国にせいぜい数千人ずつしかいないわけです。

そうすると、国内で「わかりやすいもの」を書いて読んでくれる人の数を増やすか、翻訳を通じて読んでくれる人を増やすかということになります。妙なものを面白がることができる能力は貴重ですし、絶滅しないようにしなければならない。そうすると必然的に翻訳が視野に入ってくるわけです。

翻訳しやすさについては、どうでしょう。周囲からは「日本語でもよくわからないのに、どうやって翻訳したのか」ときかれますね。わたし自身も不思議です。

Q6. 円城先生は物理学者として英語論文も発表し、将来的な英語による執筆の可能性についても以前に言及していらっしゃいます。「英語執筆」に際しておそらく際立ってきた(あるいは際立ってくる)日本語と英語の違いとは?またその差異による支障やメリットについて、ご自身での英語執筆の可能性と併せてお考えをお聞かせいただけますか?

いえ、本当に日本語しか書けないし、喋れないし、聞けないのです。読むことだけがかろうじて。

英語で書くということは考えますが、自分の能力を考えると現実的ではありません。しかし、明日から英語圏で生活せよとか、他の言葉が使われている土地で暮らさざるをえなくなるという状況は誰にでも起こりえますし、実際に起こっているわけです。二十世紀のアメリカ文学が特徴的に経験したような事態でもありますし、母語ではない言葉で書くこと、またそこから母語へと影響を折り返していくというのは、普遍的な大きなテーマなわけです。

でも、とも思うわけです。所詮英語ではないか、と(笑)。この時代に、英語で書くべきか書かざるべきかと悩むのは多少滑稽でもあるわけです。ただ単に書けばよい。

他の言語と英語のせめぎ合いで既に起こったような事態よりも特殊なことが日本語と英語の間に起こるかというと、まあ起こらないのでは、という気がします。

無論、技術的な問題は存在します。

たとえば、日本語の小説では、会話文を工夫することで、語り手を明示しなくとも誰が喋っているかを示すことが容易にできます。特にジェンダーのマーキングに顕著ですが。そうすると、「誰かが喋っているとみせかけて、別の人物が喋っていた」という仕掛けを簡単に作れるわけですが、この翻訳はパズルみたいなことになるので、なかなか難しいと思います。他方で、名詞が性を持ったりする言葉の翻訳は、日本語だと難しいわけです。

程度の問題ではありますが、日本語の小説というシステムは、台詞の語尾を入口にクラックしやすい、というイメージです。そういうところにこだわるせいでわたしの書く小説は、言語依存性が高いのです。英語で書くなら、英語というシステムの脆弱性を衝きたいところですが、そこはまだわかりませんし、せいぜいつまらない駄洒落くらいになってしまうでしょう。

Q7. ご自身での翻訳をお考えになったこと、またこれまでに「翻訳」に携わられたことはありますか?将来的には?

翻訳は時間コストとの戦いでもあります。

やってみたいと思うと同時に、自分よりも適任者がいるはずであるという事実もはかりにかけなければなりません。それ以前にやはり、自分の翻訳能力は低すぎるというところです。

今はせいぜい、目についた作品を出版社の方に話してみる、くらいのところです。将来的にはやってみたいですね。各国でそれぞれ千人くらいしか読まないような小説を。ただ、そういう小説はやっぱり難しいんですよ(笑)。

(ASYMPTOTE註:円城作品の英訳には「Endoastronomy」(『The Future is Japanese』Haikasoru, 2012.所収)があり、2013年春には同Haikasoru から『Self-Reference ENGINE』が出版される予定。)

Q8. ある島田雅彦さんとの対談で小説の「働きかけ/effect」についてお話になっていらっしゃいますが、「翻訳」の「働きかけ」と原文の「働きかけ」の差とは?

また『道化師の蝶』所収の「松ノ枝の記」ではこの点が強く意識されていたように感じましたが、「道化師の蝶」(特に第一章・ASYMPTOTE掲載部分)ご執筆中には?

あの対談での「働きかけ」の内容は、本当に即物的な話で、「読むと寝てしまう」効果を持つ本を書くこともできるのではないか、それは「読むと寝てしまう本」として積極的に評価されるべきではないか、というようなものです。

これは読書一般において起こっていることで、ただの文字の並びが巨大な感情を呼び起こすことがあるわけですが、これはとても不思議なことです。そこで、「本を読んで泣いた」という体験を、「この本は人を泣かせる効果を持つ」と考えるのはどうか、という話なのです。

である以上、翻訳と原文の持つ効果というのは、多くの場合異なるはずです。

たとえば、「蛍の光」は日本だと郷愁や子供時代の記憶を呼び起こし、友人たちと別れ家へ帰らなければと感じる歌ですが、英語圏では効果の程は異なるでしょう。

文化や、その言語の特質を利用した冗談のようなものに依存する部分はどうしても翻訳しにくくなるでしょう。小説自体の構造によるものは、それよりも伝わりやすいはずです。

ただ、その「効果」が翻訳によって異なるものになってしまっても、十分な強度を持てばそれで充分なのではないかと思います。

日本語の中では哀しかったはずのフレーズが、英語では可笑しいフレーズになっていたとして、何の問題があり、誰が認識できるのかということでもあります。この感覚は、他の国で映画を観るときに顕著です。ある場面で人々が何故笑うのかわからない、何故泣くのかがわからないということが頻繁におこります。

しかし、何かが伝わりはするのです。それは「何かを伝える」という機能でもあります。「道化師の蝶」を書いている間、ずっとそんなことを考えていました。

Q9. 同対談中で「結局、世界が全部つながって差異が見えなくなったときに、口伝てであるとか、地域性に密着したものが一番信用できるものとして立ち上がってくる可能性がある」とお話しになっていらっしゃいます。その「一番信用できるもの」もしかし、「別言語」に「翻訳」されない限り限定的な言語地域を越え得ないという皮肉も一方にあると思われます。その「一番信用できるもの」に対する「翻訳」の可能性や限界についてのお考えを伺えますか?

翻訳は関税障壁のようなものです。そう見ると、あえて輸入されるだけの価値を持っていなければならない。どこでも当たり前に生産できる商品は、それが日用品としてとても有用であったとしても、輸入する必要はないわけです。

特殊でなければ交流の必要がなく、特殊であれば交流できない、というのはたしかに皮肉な事態と言えます。

しかしわたし自身は、前の質問にもあった「効果」が翻訳によって厳密に保存されるとは考えていないわけです。こちら側から蛙が跳び、そちらに着地したときには蜥蜴になっている、ということは常に起こるわけです。蛙から蜥蜴への変転はcreationと呼んで良いでしょう(笑)。ですからその「一番信用できるもの」が伝わるかどうかは、書き手が「一番信用できるもの」を文章に込めることができるかと同じ程度に、翻訳者が「一番信用できるもの」を文章に込めることができるか、という問題なのです。その面からは創作も翻訳も同じものだと言えます。

Q10. Q9のお答えはもしかすると同対談中で文学作品の「国際競争力」について「あってもなくてもいいことなのかもしれない」とおっしゃっていることとつながるかもしれません。「国際競争力」とは何でしょう?また、円城さんご自身がご自身の作品に期待する「競争力」や「越境力」はありますか?

実際のところ国民文学というものは、ここで言う国際競争力を持たないことが多くあります。今私が考えているのは、司馬遼太郎や池波正太郎、あるいは山田風太郎のことですが。これらの作品を翻訳するのはとても難しいことになるはずです。この、「どう翻訳すればよいかわからない」という感覚と、「素晴らしい作品である」という感覚は背中合わせになっている感覚があります。すると、翻訳可能性をとるかどうかは、一つの選択ということになります。

関税障壁を超える力、ということになるでしょうか。

自作に関しては、そうですね、どちらもやれるのが良いという立場です。寿司職人ではあるが、カリフォルニアロールだって巻く、という感じでしょうか。力があるかどうかは結果が示してくれるでしょう。「お前のカリフォルニアロールは、カリフォルニアロールじゃない」とか言われたりすることで(笑)。

Q11. 島田さんとの対談中「フィクション」というキーワードを巡って、現代の「一貫性信仰」というある種のフィクション(幻想)についての不安をお話になっていらっしゃいます。『道化師の蝶』の構造はその意味で、アンチ・フィクション、すなわち①非・従来的小説であり②非・一貫性信仰の宣言でもあるような二重のメタメッセージを作品中に孕んでいるように感じます。

「一貫性」と「非一貫性」というタームについてもう少しお話を伺えますか?

一貫性を見出すには、記憶力が必要です。まず覚えていなければ、一貫しているかどうかを考えることもできませんから。以前に死んだはずの登場人物があとになって当たり前に現れたとき、今前にしている光景と記憶の間で衝突が起こります。ここで一貫性が問題になるわけで、それに気づかず読み進めてしまう人には、一貫性は問題にならないわけです。

そうしてまた、人間は自分が理性的で合理的で一貫していると信じているものです。たやすく偽の記憶をつくりだし、自分に都合のよい理屈づけを信じ、根拠のない噂を信じる。これは賢く注意深い人間であればそれを避けられる、というわけではありません。近年の認知心理学や脳科学、行動経済学が明らかにしてきたのは、「誰もがそうなのだ」ということです。

一貫して見える小説と、一貫してみえる生活との違いは何でしょう。どちらも一貫して見えるように騙されているということです。

実は一貫していない世界をそのまま描くと、非一貫的なものになるはずでしょう(笑)。

フィクションは、強く一貫性を偽装する効果を持っていると同時に、非一貫性を暴く効果も備えています。わたしは後者から作り出されたものにリアリティを感じるのです。

Q12. (Q11と関連して。) リニアな、ある意味で「一貫性」のあるプロットよりも「構造」を重視する指向性が、世界的に見ても現代小説の一つの主流になっていると思います。このような「芸術小説」(仮称)の今後の日本での展開について、またその流れとの円城先生の距離(可能的関係)についてお考えをお聞かせいただけますか?

やはり日本に限らず、どこの国でも読み手が数千人という規模の話ではあると思います。

構造的な方向へ目が向くのは当然の事態でもあります。実際わたしたちは日常的にハイパーリンクを踏むことに慣れていますし、検索の結果、雑多な文章がカットアップされて並ぶことに不思議を感じなくなっています。日々大量に流れ込む情報量はすでにヴィクトリア朝の人物が一生の間に受け取る情報量を超えているはずです。そこで人間の情報処理の様式が変わらないと考える方が難しい。

一貫性のあるプロットというものが紙というメディアに適したものであることや、小説という規模の情報が、ワードプロセッサ等の支援を受けつつ一貫性を突き詰めるのに適した分量であることには注意が必要です。本というものは何故どれも、同じようなページ数なのかと考えてみるのは面白いでしょう。

そうした状況に対する小説という形式からの応答は、とても鈍いという感じがしています。我々の社会は多くの技術者によって支えられていますが、果たして技術者が読んで面白い小説というのは書かれているのかとよく考えます。

ですからまあ、淡々と、です。

わたしたちは何が良手かはわからないまま多様性を増やすことができるだけですし、その多くは既に誰かがやって忘れられたことにすぎないのです。

Q13. 唐突な質問になりますが...、道化師の蝶の中ではエイブラムス氏が職人に作らせた「網」をはじめ、不思議なキーワード「腕が三本」が予感させるもの、別の章の語り手の「わたし」が語る料理や手芸、...など、craftやdexterousといった言葉につながるアナログな手の動きや働きのイメージが作品に通底してあるのを感じます。ここにも何かメタメッセージが?

プロットを織るというのはどこか手芸的なところがあります。ひたすら単純作業を続けなければいけないという点も含めて。わたしたちが日常目にするものの大半は既に整理され化粧をされた上面ですが、その背後にあるのは実は大変にドロドロとした実作業であったりします。コンピュータ化された現代社会というものは、コンピュータのドロドロに全身を浸したエンジニアというものも生み出しているわけで、結局のところ手作業なのです。

というあたりにようやく興味が向き始めたということはあります。

本当のところを言えば、わたしはデビュー以来、「理数系の用語や構造を多用し、よくわからない小説を書く書き手」と言われてきました。あまりに多く言われたので、「理数系の用語や構造」を「手芸や料理の用語や様式」にするとわかりやすくなるのかな、と試してみたというのが真相です。結果的には、あまり変わらなかった、というところです。

Q14. 最後に。沼野さんとの対談で、ご自身について「音楽的センス、詩的センスがない」(が、無いなりに何か面白いことができれば...と思っている)とお話しになっていらっしゃいます。

『道化師の蝶』ではかなり具体的に語られている料理や手芸についてはいかがですか?

そして...この「センスが無い」という御姿勢の'一貫性'を越えて、別天地の作品が近い将来に円城さんから届けられるのではないか...と編集部一同期待し、今後のご活躍を心から楽しみにしております。

料理はしますが、人に食べさせるほどのものではありませんし、手芸もなかなか、実際に手を動かすところまではいかないものです(いまだに鉤針編みの折り返しができません)。手芸については、どうしても何故自分がやるのかという想いに捉われます。明らかに他に早く正確にできる人がいるわけです。それでもたまに考えるのは、やっているうちに妙なことを思いつくかも知れないと思うからです。四次元編み物とか(笑)。

手先のことは好きなのです。思考の「速さ」に対する、現実世界の「遅さ」は、この世界が存在しており、途方もなく入り組んでいるという実感を与えてくれます。自分はこの「速さ」の方に惹かれる部分が強いのですが、きちんと「遅さ」を整備して速度を得なければと思うようになってきました。

基本的に、あっちへ行けといわれると、違う方向へ行ってしまう性質ですので、今後どうなっているかはわかりませんが、時々思い出して探して頂ければと思います。

今回は有難う御座いました。

インタビューの機会を持たせていただくことができ大変光栄です。

ありがとうございました。

Asymptote would like to give special thanks to Kazuto Yamaguchi (Kodansha).